教えのやさしい解説

大白法 533号
 
禅天魔(ぜんてんま)
 「禅天魔」とは四箇(しか)の格言(かくげん)の一つで、「禅宗は仏法を破壊する天魔の所為(そい)」であることをいいます。
 禅宗の教義の主なものに「教外別伝(きょうげべつでん)・不立文字(ふりゅうもんじ)・直指人心(じきしじんしん)・見性成仏(けんしょうじょうぶつ)」があります。
 「教外別伝・不立文字」とは、『大梵天王問仏決疑経』なる経典に、
 「吾に正法眼蔵涅槃の妙心、実相無相の微妙の法門あり、教外に別に伝う、文字を立てず。摩訶迦葉に付嘱す」
とあることから、釈尊の真意は教(きょう)の外(ほか)にあり、それは経文・文字によらずに、特に摩訶迦葉に付嘱されたのであるということです。つまり仏の真意は、直接心から心へと伝えられたのであり、言語や文字などの媒体(ばいたい)をもって明らかにすることはできないというのです。
 また「直指人心・見性成仏」とは、仏の心も凡夫の心も本来同一であるゆえ、座禅をすれば心に本来具有(ぐゆう)する仏心を観見し、仏心即凡心たることを覚知するということをいいます。
 このように禅宗は、仏の教説を否定し、禅による悟りこそ仏の真意であると主張します。
 こうした邪義に対し、日蓮大聖人は『早勝問答』に、
 「問ふ、禅天魔の故、如何(いかん)。答ふ、義に云はく、仏経に依らざる故なり。一義に云はく、一代聖教を誹謗する故なり」(御書 四九八n)
と仰せのように、禅宗は釈尊一代の経典文字を尊(とうと)ばず、経典を誹謗する故に天魔であると破折されました。
 すなわち「涅槃経』に、
 「願はくば諸の衆生悉(ことごと)く是(これ)出世の文字を受持せよ」
とあり、天台大師が『法華玄義」に、
 「文字は是れ三世諸仏の気命なり」
 「文字を離れて、解脱を説くの義無し」
と釈されているように、もとより仏道は仏説文字を離れてはあり得ません。それを禅宗は強(し)いて仏説に順(したが)わず、文字の外に仏の教えなるものを求めています。
 これこそ『涅槃経』に、
 「若し仏の所説に順はざる者有らば、当に知るべし、是の人は是(これ)魔の眷属(けんぞく)なり」
と説かれる仏法破壊の天魔・外道(げどう)の所為なのです。しかも禅宗は「教外別伝・不立文字」といいながら、大梵天王問仏決疑経なる経典を依経にしているのですから、甚だしい自語相違といえましょう。その上、右経典自体が偽経(ぎきょう)なのですから話になりません。
 また禅宗は「直指人心・見性成仏」といって、自己の心を仏と称し、大慈大悲の仏の化導(けどう)を無視して「是心即仏・即心是仏」と説いていますが、これこそ大増上慢の極みと言うべきです。
 すなわち、仏と凡夫を理の辺、不二の辺、平等の辺から見れば同一と言えますが、事の辺、而二(にに)の辺、差別の辺からすれば、そこには迷悟(めいご)の相違があるのです。
 『蓮盛抄』に、
 「禅宗は理性の仏を尊びて己(おのれ)仏に均(ひと)しと思ひ増上慢に堕つ、定めて是阿鼻の罪人なり」(御書 二七n)
とありますが、「己仏と均し」と説く禅徒と、「本尊は我々の胸中の肉団にある」と盲信する創価学会員は、何れもまさに増上慢・無間地獄の罪人にほかなりません。